2015年8月22日土曜日

(拙訳)「ブエノスアイレス、そこは世界でもっとも多くのサッカー場がある街」

http://deportes.elpais.com/deportes/2015/08/17/actualidad/1439826746_040027.html?id_externo_rsoc=TW_CM

「ブエノスアイレス、そこは世界でもっとも多くのサッカー場がある街」
・1万人以上の観客を収容できるスタジアムが周辺部と合わせて36にのぼる

おそらく世界にはブエノスアイレスほどサッカーを見る、あるいはサッカーをする人がいる都市はないだろう。ラテンアメリカで3番目に大きい、州全体で人口1300万人を抱えるこのメトロポリスは、1万人を超える観客を収容できるキャパシティーを持ったスタジアムが36ある。たくさんのポルテーニョたち、あるいはボナレンセたち(どちらもブエノスアイレスの人たちを指す)は少なくとも週に一度はリーグ戦を組んだり、友達とサッカーをする(上手くても下手でも、若者でも70歳の年寄りでも)、そして終わったらピザやアサードのバーベキューへと繰り出すのだ。

『灰色の天使の年代記』の中で、インスピレーションに満ちたバリオ(※地区のこと)の、”サッカーが華やかなりし頃”について書いている作家のアレハンドロ・ドリーナは、71才になっても毎週火曜日に20代や30代に混じってプレーし続けている。
「サッカーをしない人の方が珍しい。私はマドリードやバルセロナへ仕事でしばしば訪れるがそこで試合をするのは難しい。だからといってアルゼンチンのサッカーが素晴らしいかと言えばそうではない。スペインは以前とは異なるサッカーをし始め、それは創造性あふれるコンビネーションを持っている。」と彼は分析者の目で称賛する。

ドリーナは一方でアルゼンチンサッカーを批判する。
「アルゼンチンは世界で五指に入るサッカーの国である。しかし、スタジアムに関してはその質において比例していない。凡庸で、居心地が悪く、醜悪で、汚いし、危険でもある。」
ブエノスアイレスの36のサッカー場のうち、最も大きいのがリーベルの61688人、つづいてラシンの51389人、そして4万人~5万人が6つ、3万人~4万人が6つ、2万人~3万人が8つ、1万人~2万人が14となっている(この中でもっとも小さいのが3部のチームのメルロと4部のチームのサン・ミゲルである)。ブエノスアイレスは、15のサンパウロ、12のロンドン、9のリオデジャネイロ、5のマドリードを優に凌ぐ。

「ブエノスアイレスは、ロンドン、モンテビデオに並んであらゆる大きさのスタジアムを持つ街である。その理由として、ここにはクラブが自前のスタジアムを持つというイギリスの伝統を維持していたからである。」とブエノスアイレス大学の教授で『サッカーの社会史』の著者であるフリオ・フライデンベルグは言う。
「他の国では街のクラブはほぼすべてが自治体のスタジアムで試合を行う。ここではクラブが住民やメセナの力を借りながら用地を手に入れ、客席を設置するための闘いがあった。」とこの歴史家は付け加える。

フライデンベルグが語るところによると、アルゼンチンの主要なクラブが設立された20世紀の最初の10年は、”男性が、軍隊で、教区で、または労働組合、会社、学校で、あるいは劇場での社交仲間とともにサッカーをするのは半ば義務だった。”そして30年代・40年代では”サッカー場へ行くこと”が義務に加わった。この2つの伝統は今も続いているが、義務ではなくなった。
「その痕跡は残っているがね」と教授は注意深く見つめる。

しかしその痕跡こそが外国人の目を惹きつけ続けているのも確かだ、例えばドイツ人記者のクリスチャン・ティーレのような人物に。彼は『アルゼンチン読本』の著者で、その本の中で友達との”月曜日のサッカー”について一章を割いている。
「アルゼンチンの男性は生きるために多くのことを必要としない。必要なのは、美しい女性、歯に詰まった死んだ雌牛(つまりアサード)、そしてサッカーの夜である」とティーレは指摘する。
彼は街が提供する何百もの有料のグラウンドがあることに驚き、そしてアルゼンチン人との一筋縄ではいかない試合にまた驚く。270万人が住む連邦首都区ブエノスアイレス市内だけで、スタジアムを除き、利用料のかかるもの、クラブの持ち物、公園のグラウンドは、5人制から11人制まで合わせて412ある。ティーレは夜の11時半に試合を終え、グラウンド利用料を払うために小銭を集め、シャワーを浴び、そしてバーベキューを食べに出かけたことを懐かしく思い出す。
「一週間が始まったのだ」

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